
入門編 6
セックスワーク論の何が問題か Ⅰ
「セックスワーク論」と呼ばれる考え方を支持する人が、次第に増えています。その考え方に違和感をいだく人からも、それの何が問題なのかがはっきりわからない、という声をよく聞きます。そこで、「セックスワーク論」の考え方を確認したうえで、私たちが考える問題点を2回に分けてみていきます。
セックスワーク論とは?
「セックスワーク論」とは、金銭と引き換えに不特定の相手と性行為(セックス)をすることを労働(ワーク)ととらえ、合法的な職業として国が承認することを求める主張です。性の売り手は「セックスワーカー」、つまり合法的な「労働者(正確には個人事業主)」と位置づけられます。他人の性売買(セックスワーク)から儲ける第三者(業者)の営業活動、たとえば性売買の店舗経営、仲介・斡旋業なども合法化されます(論者の中には業者の営業も「セックスワーク」に含め、業者も「セックスワーカー」と呼ぶ人もいます)。
性の売り手は、一般的に、自ら独立して不特定の他人に性を売る「個人事業主」と位置づけられます。もっとも、個人として客と性的取引きすることは危険すぎるため、個人事業主とは名ばかりで、多くの場合、性売買店で店の指揮命令(決められた労働条件)のもとで、事実上、雇用労働者として働いているのが実態です。
セックスワーク論は、「セックスワーク」(性労働)を、「セックスワーカー」(性労働者)の性的自己決定権の行使であり、国が禁止することはできないと言います(「私の体は私のもの」「売る売らないは自分で決める」などの標語)。また「セックスワーカー」の働く権利(労働権)、あるいは生活するための権利(生存権)でもあり、国はそれを保障し、「セックスワーカー」が安全に働けるよう条件を整える義務を負うとも言います。
「セックスワーク」を「セックスワーカー」の権利ととらえるセックスワーク論に立つと、性を売る行為を禁止する法制度(「禁止主義」)は不当な権利侵害であり、許されません。また、たとえ性を売る行為を禁止しなくても、事実上、性を売る行為を不可能にする法制度(たとえば、購買行為である買春を処罰する「北欧モデル」)や、著しく困難にする法制度(たとえば場所の提供や資金を融資する業者の活動を禁止する「廃止主義」「北欧モデル」)も、「セックスワーカー」の権利を直接的、間接的に侵害する法制度であり、否定されます。
さらに、性の売買および業者の営業のどれも禁止しない「合法化」の法制度であっても、それが、出店立地規制や広告規制、客引き規制など、性の売り手や業者に対して道徳的に否定的な評価に基づく規制を含む「規制主義」の法制度である場合には、セックスワーク論者はそれを差別的な法制度として拒否します。
前提にある認識
以上のような主張内容を持つセックスワーク論には、いくつかの前提的な認識(および一部それに基づく主張)があります。それを箇条書きに列挙してみます。
セックスワーク論の問題点
以上、セックスワーク論の主張と前提にある認識をみてきました。しかし、それには次のような問題点があります。
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性売買(セックスワーク)では、性の売り手に、人の「性」にとって最も重要な「性行為そのものへの同意」がないこと。
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性売買(セックスワーク)で売買されているのは「性の売り手の身体や人格ではなく、性的サービスである」というのが誤りであること。
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買春者と業者の暴力性や加害性を批判せず、かれらの行為を肯定すること。
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業者の営業を合法化し、性の売り手を合法的な個人事業主(セックスワーカー)と位置づけても、性の売り手への差別や偏見、搾取や暴力はなくならないこと。
以下では、この4点をそれぞれ検討していきます。
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性売買において売り買いされているのは、性の売り手の「身体」や「人格」そのものではなく、買い手の性的欲求を満たすための「性的サービス」である。よって性の売り手は、「性的サービス」を販売するサービス労働者であり、本来販売不能な身体や人格を金銭の力で強制的に奪われる被害者などではない。
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性の売り手は、一般の労働者と同様、暴行や脅迫などがない限り、「セックスワーク」という仕事に従事することを自ら選択し決定している。当事者の自由意思による「自己決定」は、「セックスワーク」の場合も、何よりも尊重されなければならない。
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性の売り手が女性の場合、とくに社会的偏見や道徳的非難にさらされることの原因は、女性に性的「純潔」を求め、夫に「貞操」を尽くすべきとする古くて差別的な性道徳にある。よって、女性に「セックスワーカー」としての地位を社会的に承認することは、古い性道徳を解体し、女性が性的権利と平等を勝ち取るうえで、積極的な意義がある。
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性の売り手が、業者の搾取や買春者の暴力などにさらされやすいことの主たる原因は、「セックスワーク」を禁止する法律にある。たとえば、性の売り手を処罰する「禁止主義」の法律は、性の売り手が搾取や暴力被害にあっても警察の保護を求めることを不可能にしている。また、性の売り手を処罰していなくても、業者を処罰する「廃止主義」や業者と買春者を処罰する「北欧モデル」は、性売買をマフィアが営業し、危険な顧客が集まる闇市場にし、結果的に性の売り手を搾取や暴力の危険にさらしている。
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よって、性売買のアクターを包括的に非犯罪化し、性の売り手を「労働者」と認め、権利と安全を保護する法制度が制定されれば、性の売り手が搾取と暴力から守られるようになり、女性に性的純潔や夫への貞操を求める古くて差別的な性道徳もすたれ、性を売る女性への社会的偏見もなくなっていくはずだ。
① 性行為そのものへの同意の欠如
暴行や脅迫などにより強制されていない限り、性の売り手は性を売ることを自ら選択し決定しているのだから、当事者の自己決定を第三者(社会)は尊重すべきだと言われます。しかし、性の売り手が「自ら選択し決定している」といっても、性の売り手が同意しているのは、「金銭と引き換えに性行為をする」ことです。それは、そもそも金銭を支払われなければしない性行為のはずです。したがって性の売り手には、「金銭を支払われなくてもする」という意味での「性行為そのものへの同意」はないのです。売り手の性行為への同意(性的同意)は、買春者によって金銭で買い取られていると言えるでしょう。
「同意のない」性行為は性暴力であり、性犯罪です。ですから、金銭によって相手の性的同意を買い取って性行為を行なう買春は、性暴力なのです。性交やその類似行為など、性売買で行なわれる性行為の深刻さを考えれば、買春は北欧モデルの法制度のように、性犯罪として処罰されるべきです。
それとは逆に、性売買を「セックスワーク」、つまり労働(ワーク)の一形態とみなして合法化を求めるセックスワーク論は、暴行や脅迫、欺罔(ぎもう=だまし)によって性を売らされる(または買われる)ことは犯罪被害と認めますが、本人(成人に限る)が同意している限り、性行為を売ることは、顧客との「性的サービス」という名の労働の売買契約の合意であり、何の暴力性も犯罪性もないと言います。
しかし、私たちは、「性行為」を「労働」の一種ととらえることは誤りであると考えます。性行為と労働(労働力の提供)の違いは、人にとって性行為のほうが、労働力の提供よりも、個人の尊厳にかかわる人格的な営みだということです。
人の性と尊厳(人格的価値)との強い結びつきは、労働を強いられるよりも性行為を強いられるほうが、一般に心身が被るダメージが大きいことからも知ることができます。同意のない性行為を強いられると、人はしばしば癒やしがたいほどの深い傷を負います。そのことが社会的に認知されるようになった結果、かつて強盗罪の罰則よりも低く設定されていた不同意性交等罪の罰則が引き上げられました(2017年の法改正により強盗罪と同じ5年以上〔20年以下〕の拘禁刑)。
仮に、性には個人の尊厳とかかわる特別な人格的価値などなく、性行為と労働は同じだと考えるとどうなるでしょうか。そうなると、同意のない性行為の強制を特別に重く罰するための犯罪規定を設ける必要がなくなるでしょう。つまり、不同意性交罪や不同意わいせつ罪は削除され、単なる強要罪(3年以下の懲役)や労働基準法上の強制労働の罪(1年以上10年以下の懲役など)として扱えばよいということになるでしょう。しかし、性犯罪者を「性」的要素が取り去られた罪で裁いても、被害者の尊厳が回復されないのは明らかです。
以上のように、人の性には個人の尊厳とかかわる特別な人格的価値があり、性行為は労働よりも人格的な営みであるがゆえに、労働よりも「強制」から手厚く保護されなければ、個人の尊厳を守ることができない、ということです。保護の「手厚さ」は、以下のように、物理的・心理的強制からだけでなく、「経済的強制」からも保護されるべきである、という点に表れます。
労働よりも人格的な営みである性行為の「強制」からの保護には、次の2点が必要だと私たちは考えます。
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性行為は、労働と同様、暴行や脅迫、その他不当な方法により同意に反した強制(広い意味での物理的・心理的強制)から保護される必要がある(性行為の場合=不同意性交等罪・不同意わいせつ罪、労働の場合=強制労働罪)
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性行為は、労働とは異なり、1に加えて、金銭により性行為そのものへの同意(性的同意)を買い取られた「経済的強制」からも保護される必要がある(性行為の場合=買春罪、労働の場合=なし)
2にあるように、相手の性的同意を金銭で買収して行なう性行為、つまり買春は、不同意性交(またはわいせつ)の一種であり、禁止・処罰されなければならない、ということです。このような考えは、日本ではまだ突拍子もない主張のように聞こえるかもしれませんが、買春罪を導入する国は、スウェーデンを皮切りに、フランス、カナダなど徐々に増えているのです。買春罪は、性行為を経済的強制からも保護することで、すべての人の性の尊厳が保護されるレベルを、不同意性交罪からさらに一段階、高めるものです。
②「売買されているのは性的サービス」の誤り
セックスワーク論は、性売買で売買されているのは性の売り手の「身体」や「人格」ではなく「性的サービス」という労働だと言います。しかし、これは誤りです。もし本当に「性的サービス」以外の、売り手の身体的・人格的要素が一切売買されていないとしたら、性の売り手の人気や報酬は性的サービスの熟練度のみによって(少なくともそれが主たる要因となって)決まるはずです。ところが現実は、性的サービスが未熟であっても、「若くて」「可愛い」新人ほど人気が高く、収入も多くなります。サービスに熟練しても、容姿が劣っていたり、年齢が上がったりするほど人気が落ちていきます(性風俗店で客は、年齢や容姿により相手の女性を指名したりチェンジしたりできるようになっています)。
このような事実は、性売買では性的サービスのみが売られているのではないということを示しています。では、性的サービスのほかに、何が売られ、買われているのでしょうか。それは、「若さ」や「容姿」を中心とした個々の女性の身体的・人格的要素に商品的価値が付けられたうえで、その女性から性的なサービス(奉仕)を受けることで得られる支配欲や優越感なのではないでしょうか。つまり、性売買は、買い手の男性が売り手の女性を若さや容姿で値踏みし、格付けするという外見差別(ルッキズム)に基づく業務であり、女性を男性の性的支配欲や所有欲を満たすための手段として扱う性差別の業務だと言えます。
このような分析に対しては、「サービスの提供者の年齢や容姿が重視されるのは性売買だけではない」とか、「提供者の若さや容姿もサービスのうちだ」などという批判が考えられます。しかし、客が年齢や容姿によってサービスの提供者を選ぶのはルッキズムと批判されており、性売買以外では社会的に許容されていません。ほかの業務では許されない差別が性売買では堂々と行なわれているのです。「若さや容姿もサービスのうち」などという主張は、女性の容姿を売り物にするルッキズムを正面から肯定する議論であり、認められるものではありません。
以上みてきたように、性売買で売買されている女性の身体的、人格的要素を無視し、「性的サービス」の売買に矮小化してとらえるセックスワーク論は、性売買の現実とかけ離れた、欺瞞(ぎまん)的な議論だと言えます。
③ 買春、業者の活動の無批判な肯定
セックスワーク論の3つ目の問題点は、それが買春や業者の営業活動をまったく批判しないことです。性を売ることを職業として認めれば、性を買う「買春」も、両者を仲介・助長し他人の性売買から利益を得る第三者の営業活動も肯定されることになります。買春は倫理的に非難される行為ではなく通常の性的消費行動になり、買春者は性産業の大切な「お客様」となります。性売買店舗を経営したり、性を売る女性を斡旋したり、集客したり、買春をあおる広告を出したりして儲ける業者の営業行為も、「セックスワーク」を支える活動として肯定されます。
しかし、買春とは、金銭の力で相手の性的同意を買い取って行なう性行為です。つまり買春は、相手の性行為そのものへの同意(性的同意)を欠いた不同意性交・わいせつの一形態であり、性暴力です(金銭は人に何かを強いることができる、もっとも容易な手段であることを忘れてはなりません)。性暴力である買春をあおり、他人の性売買から利益を上げる業者の活動は、買春という性暴力の共犯行為であり、それへの寄生行為です。
買春や業者の営業活動は、賃金格差などのジェンダー不平等の結果、生じていると考えられますが、それと同時に、ジェンダー不平等を助長・強化するという逆方向の役割も果たしていると言えます。性を売る女性は、性売買を通じて、買春男性の支配欲や所有欲を満たすための手段として扱われています。性売買とは、ジェンダー不平等な性的関係を実践する場なのです。そのような性売買が広まれば広まるほど、女性を男性の性欲を満たすべき存在とみなしたり、女性を男性と対等な市民として認めないような、ジェンダー不平等意識が強まるでしょう。
以上のように、買春は性暴力の一種、業者の営業はその共犯行為であり、両者はともにジェンダー不平等を助長・強化する行為です。そのような買春と業者の営業を「セックスワーク」に不可欠な存在として肯定するセックスワーク論は、両者の暴力性と差別性を容認する現状維持的で保守的な議論だと言わなければなりません。
④ 業者の営業の合法化は性の売り手の自由をもたらさない
セックスワーク論は、業者の営業を合法化し、性の売り手を合法的な個人事業主と位置づければ、性の売り手への差別や偏見がなくなり、搾取や暴力から守られるようになると主張します。しかし、実際に業者の営業を合法化し、性の売り手を個人事業主とした国の政府(ドイツなど)や、性売買経験当事者自身が、そのようなことは実現しなかったことを認めています。
ここでは、2002年から性売買合法化に踏み切り、「ヨーロッパの売春宿」と呼ばれるようになったドイツについて紹介します(☞「入門編8 性売買を合法化した国で何が起きたか?」)。
ドイツは、2002年に「性の売り手の法的状況を規制する法律」(以下、性売買法)を制定し、性売買を合法化しました。その目的は、性の売り手の社会的保護や労働条件の改善、性売買からの離脱の容易化、関連犯罪の温床の除去などでした。しかしドイツ政府は、合法化から5年後の2007年に公表した報告書で、以下のように立法目的はほとんど達成されていないと結論づけました。
そのような結論をくだした政府報告書から、さらに6年後の2013年に、ドイツの有力誌「シュピーゲル」は、「性売買の合法化はいかに失敗したか」という特集記事を発表しました。それによると、合法化によって実際にドイツで生じたことは、性売買産業の規模拡大と競争の激化、移民女性の流入と性売買の「価格」の下落でした。
その特集記事によると、業者は、競争の激化にともない、買春者にとって「より刺激的」で「お得」なサービスを提供するようになりました。しかしそれは、性の売り手にとってはより虐待的で、搾取的なものでした。たとえば、「集団レイプ・プレイ」では、1人の女性が複数の買春客と性交、口腔性交、肛門性交をさせられ、「コンドームを付けた客はほとんどいなかった」とある女性は証言しています。また、大手の店舗は「定額制」を導入しました。その宣伝は次のようなものでした──「すべての女性と、何時間でも、何度でも、好きなやり方でセックスしたい放題。セックス、アナルセックス、コンドームなしのオーラルセックス、3P、グループセックス、集団レイプ」。料金は、日中70ユーロ(当時のレートで約9,000円)、夜間100ユーロ(約13,000円)に設定されていました。
このように、性の売り手に対する虐待と搾取を売り物にするサービスが増えた結果、ドイツ政府は、「集団レイプ・プレイ」や「定額制」を禁止する「性の売り手保護法」を制定せざるを得なくなりました(2017年施行)。しかし、性売買が合法的な産業であり、業者の金儲けの手段であり続ける限り、業者は法の網をかいくぐり、客の欲望を満たす新たな暴力的で差別的な「サービス」を生み出すでしょう。それは必然的に、性の売り手の心身の安全と健康を害するものです。また、女性差別的で、「強者」に甘く「弱者」に厳しい社会は、それが合法であろうと違法であろうと、暴力的で虐待的な商売を営む業者を蔑(さげす)むのではなく、「自ら」「好んで」暴力と虐待にさらされる仕事を「選ぶ」女性たちを蔑みの対象とするのです。
まとめ
以上、セックスワーク論の考え方と、その前提にある認識を確認したうえで、4点にわたって、その誤りや欺瞞性をみてきました。誤りとごまかしのセックスワーク論に基づいて性売買を合法化してしまうと、性の売り手の自由や権利が実現するどころか、まったく逆であることがすでに合法化した国で示されています。
性の売り手に対する差別や搾取をなくすには、性売買の業者の営業を合法化するのではなく禁止・処罰し、さらには買春をも禁止・処罰して需要を絶ち、性の売り手に手厚い離脱支援策を提供する「北欧モデル」の法律こそが必要なのです。
〈参考文献〉
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ドイツ政府2007年報告書「連邦家庭・高齢者・女性・青少年省「性の売り手の法的状況を規制する法律〔性売買法〕の影響に関する連邦政府報告書」
https://www.kok-gegen-menschenhandel.de/fileadmin/user_upload/federal_government_report_of_the_impact_of_the_act_regulating_the_legal_situation_of_prostitutes_2007_en_1.pdf
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「性売買の合法化はいかに失敗したか」シュピーゲル2013年5月30日
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性売買法は、性の売り手に対する社会的保護に、実際に測定可能な改善をもたらすことができなかった。
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性の売り手の労働条件の改善に関しても、測定可能なプラスの影響は実際上ほとんど見られない。とりわけ労働条件に関しては、性の売り手自身の利益になるような短期的な改善は期待できない。
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性売買法は、性の売り手が性売買から離脱するための手段を、認識できるレベルで改善していない。
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性売買法が、関連犯罪を減らしたという有力な指標はまだない。